大海を知った蛙
小学生の頃の思い出話。
自宅のマンションの近くに川があった。
僕は心の中で「ベルリンの川」と呼んでいた。(みんなは呼んでないと思うが。)
ご想像の通り、かつて西ドイツと東ドイツの間にそびえ立っていた「ベルリンの壁」が由来だ。
一応補足しておくが、僕は日本生まれ日本育ちだ。子どもの頃は何かにつけて名前を付けたがるものだ。
小学生の時、子どもたちだけでは「校区内」(通っている学校が定めた地区)でしか遊んではいけないという、つまりは校区外に出てはいけないという校則があった。
その校区を分けるためにいろんな目印があった。JRの踏切、国道、商店街...。
子どもたちにもわかるようになのかとても簡単な目印だった。
察しのいい方ならもう解ると思うが、
その中で一番、僕が記憶に残ってるのが、
「ベルリンの川」だ。
今ならもう少しマシな名前をつけるかもしれないが、あの頃の僕は自分のネーミングセンスなど疑う余裕はなかった。毎日必死だった。
「禁止」というモノにとてつもなく弱い子どもだったが、「校区外」へはなかなか踏み出せなかった。
「校区外には先生が監視のためにウロウロしていて、見つかったら怒られる」
「『ごくせん』のような世界があって、お金を持ってたら取られる」
「めちゃくちゃ喧嘩が強い奴がいる」
「何組の誰々が校区外に行った」とか
いろんな噂がたった。
嘘と本当が錯綜していた。
だけどそんなことも知らず、
僕たちはとても小さな世界で生きていた。
泳いでる時はその海の広さが解らないのと同じだな。
と今では思う。
「ベルリンの川」の傍にはテトラポットのような石が積み上げられていた場所があった。
その隙間には小学生が2人程入れる個室のようなスペースがたくさんあった。
夏は日陰で涼しく、冷えた石の温度が気持ちよかったし、冬は風避けになった。
僕らはそこを秘密基地にした。
DSで通信対戦をしたり、落ちてたエロ本や家にあった漫画を持ってきたり、火遊びをしたり、
宿題をやってるやつもいた。
無敵だと思った。
僕らの秘密基地の話は忽ちクラスで話題になった。
「ベルリンの川」沿いにあるから「校区外」だという言い合いもあったが、
川の向こう岸じゃなく、こちら側にあるということで終息した。
そのぐらい「校区外」に出ることは
僕らの中では重たい罪だった。
_________
だけど、そんな僕らでも一度 校区外に出たことがある。僕と僕の間ではその出来事のことを
「右往左往僕らの道」と勝手に呼んでいる。
僕らの間では、変速ギアの自転車を乗ってる子たちが大半だった。
段階の数で競ったりもしたぐらいだ。
今でも自転車に乗ると立ち漕ぎしたくなるのと、遠くに行きたくなるのはこの頃の経験があるからだろう。
その「右往左往僕らの道」とは
・自転車であること
・道を走っていて、曲がれるところがあれば左、その次は右、その次は左...と交互にすること
・曲がるタイミングは自分らで決めていいこと
(他にもあったかもしれないが、覚えてるのがこれくらい)
とまあ簡単なルールのついた遊びをやっている時の話だ。
くねくね曲がりながら
みんなでケラケラ笑いながら
自転車を漕いでいた
するといつの間にか見たことの無い景色が広がっていた。電柱に書かれた初めて観る住所。
みんな校区外だと薄々気づいていた。
幸いまだ日は沈んでいなかったので、
帰ろうと諭したが、
まるでみんな聞く耳を持たなかった。
僕も迷子になるなら一緒の方がいいと思って
若干のワクワクを抱きついて行った。
結局迷子になり家に着いたのが20時過ぎ。
親に大目玉をくらった。
これが、「右往左往僕らの道」
見たことのない景色と
あの高揚感は未だに思い出す。
_________
「ベルリンの川」に秘密基地を作ったのに後2つ理由があった。
1つ目は「ベルリンの川」に架かる橋を渡って暫く行くとイオンモールがあったのだ。
家族としか行ったことないイオンモール、
もっと言えばイオンモールの中にある
あの当時、みんなの宝箱だった「トイザらス」に友達と行くためでもあった。
田舎者の青春はだいたいイオンモールに詰まってると言っても過言ではない。
2つ目はそのイオンの近くにあるラブホテルに行くためだった。
勿論だが、そんな本来の意味を求めて行きたいと思った訳ではない。
ラブホテルの外観が、テーマパークのアトラクションのような作りで、とても楽しそうで。
当時の僕らの大半は親に
「あそこに遊園地があるから連れて行け」
と言って困らせたことがある。
楽しいという感情が違った意味で伝わったんだな。
それでも
トイザらスに入ると未だに胸が踊るし、
紛らわしい外観のあのラブホテルみると
今でも鮮明に思いだす。
こんな傍から見ればくだらない思い出話はいくらでも出たのに、肝心な
「校区外に出たきっかけ」はひとつも覚えてない。
気がつけば「トイザらス」に行って、遊戯王カードを買ってたし、あれはテーマパークじゃないこともラブホテルの本当の意味も知っていた。
あの秘密基地への道は雑草が伸び放題で通れなくなってたし、「ベルリンの川」に見向きもしなくなった。
今じゃ24歳。お酒もとうに飲めるようになって、22時以降でもファミレスに入れるし、夜通し遊んでも補導されないし、朝方帰っても親に怒られない。
なんて自由なんだ。
なんて寂しいんだ。
あの限られた環境の中の自由に
井の中が1番広いと思っていた愚かさに
勝てるモノが未だに見つからない。
海に放り出された蛙は
海流に飲まれるだけなのだろうか。
雑写をいくつか。
また書きます。
読んでくれてどうも有難うございます。
二村 仁弥
逃げる場所は頭の中。
最寄りのマクドナルドが改装工事中で営業をしていない。壁に貼られた営業再開日を赤字で記載してあるチラシの前で、咽び泣く小さな男の子とその子の頭を撫でる母親。親子の後ろにいた僕も泣きたいぐらいマクドナルドが食べたかった。その気持ち分かりますよ、少年。
僕の口の中と胃袋様はアプリのクーポンで頼んだ190円のフライドポテトLサイズしか受け付けていなかった。
だけど、僕は泣かない。咽び泣いてもマスクがファスファスするだけだし、鼻腔から出た水分がマスクの内側に着く方が嫌だし、頭を撫でてくれるひとが隣にいないから。
そして何より、泣いてもどうにもならないことと、泣く以外の方法を知っているからだ。
「そう言えば、最近全然『全サイズ150円』やらなくなったな。『全然全』まで言うと『せ』も言いたくなるな。RADWIMPSって『ラッドウィップス』だと思っていたけど『ラッドウィンプス』なんだよな。」と思考と知識と経験がいろんな選択肢を僕に提供してくれる。
下町居酒屋くらい雑にそれらが置かれていく。
言うなれば、自分の機嫌を自分でとっているのだ。
自分の機嫌をとるようになったのは、高校で出会った日本史の教師、ナガマツ先生のおかげだろう。
理系約20人と文理系12人で編成されたクラスにいた僕は後者に属していた。クラスとしてひとつの教室に収められていたものの、その殆どが移動授業だった。日本史ももれなくそのひとつ。
ナガマツ先生はザ行がダ行になるいわゆる紀州弁を話す方で、銅像が「どうどう」、座布団は「だぶとん」と発音する。
「世界史やったら大変やったわ」と言っていた。
「フランシスコ・ザビエル」は「フランシスコ・ダビエル」と言っていた。
ナガマツ先生は、お寺の住職さんでもあり、二人の娘さんを持つ父親でもあり、内一人の娘さんは結婚し子どももいた。
父親、住職、教師、祖父。
そんないくつもの肩書きを持つ先生に
いつだったか忘れたけど、
「そんないっぱいで大変じゃないん?」と
訊ねたことがある。
今ではすごく失礼な質問の仕方だったなと思う。
すると先生は
「確かに大変な時もありますね。でも私は好きなものが多いからそういう時はそれでバランスが取れてるんやと思います。」
と言った。
「好きなもんなんて全然ない」という僕の言葉に
「好きなもんなんてこれから全然(でんでん)増えます。それにあった方が逃げ道になりますよ。良くも悪くも。」と返した。
確かにナガマツ先生はハーレーに乗ったり、スキーや海で釣りをするのが好きな人だった。なんか色んな乗り物免許を取得するのが趣味だったことも覚えている。思い出せるのはそれくらいだけどもっと多くのことを話していたと思う。まだ話していなかったことも当然あると思う。
ナガマツ先生の言葉をきっかけに色んな初めてのものに触れるようになった。改めて触れることもした。
自分の中に既に色んな好きがあって、色んな嫌いがあった。そこに新しい好きと嫌いが加わった。自分の好きと嫌いに正直になれた。そして気づいたことがある。
どうやら僕は「考える」のが割と好きだと気がついた。
いつも定時に帰るナガマツ先生を掴まえて、そのことを伝えると、嬉しそうにしてくれた。
いつしか僕にも肩書きが増え、どうしようもなく泣きそうな時は確かにあるけれど、この思い出がある限りは強く在れる。「考える」という歯車が動き出すから。
卒業間近に約束したハーレーを僕に譲ってくれる話、ナガマツ先生まだ覚えてるかな。
あれ、呼吸ってどうやってするんやっけか。ってなるよね。
食事後、口を拭いたティッシュをゴミ箱に投げるのだけど、最近入らない。入らないけど投げる。そこに意味なんてない。この文章にも意味なんてない。多分後でやって来るから、急いで求めない。
どうも、約一年ぶりの更新となりました。
こういったものを自己満足の延長にある顕示欲から始めたもんで、文章を打ってはそこで満足していました。
下書きに溜まっていた言葉は腐っていて出せなかったラブレターのように羞恥しかそこにはなかったです。
冒頭の文章はそれらのひとつです。
ここに供養します。
______
上京して一年と半年が過ぎて
「もう」と「まだ」を時間に対して抱きながら
日々、揺れてます。
どうも、二村 仁弥です。
俳優業やってます。
______
COVID-19 により多くの人の時間が止まって
例に漏れず僕の時間も止まって。
足も止まりました。
先に決まっていた予定はなくなったのに
漠然と相変わらず僕はその場に立って揺られているだけでした。
コンセントの線がギリ届く場所を掃除機で掃除するような、手の水かきだけないカッパのような、カッパになったことも話したこともないけれど、そんなもどかしさの中、生きていました。
そんな中でも年末というのは暦上必ずやって来る。終わってすぐ始まるだけなんだけど、どうにも後ろを振り返ってしまいます。
今年何をしたっけ、自分? と。
働いていた携帯ショップのアルバイトを辞め、
単発の派遣バイトと
テレビ局の美術スタッフと
ハウススタジオのスタッフと
飲食店のアルバイトを掛け持ちして
あ、引っ越しました。(水だけしか最初ありませんでした。)
配信映画祭というものに自分が携わった作品が出たり、
決まっていた舞台が中止になったり、
延期になったり、
その延期した舞台が公演できたり、
(ぶれているのが私)
それの配信版の上映会ができたり、
テレビに少しだけ出演したり、
とまあ、ざっとこんな感じでした。
思ったより何もしていないです。
もちろん、振り返ったことだけが全てではなくて
自分の中にだけ留めておいていることもたくさんあります。溢れて落ちたものも。
当たり前だったことが出来なくなって
「異常」が「通常」になったので
ある種当然なんだけれど、
とても悔しいです。
来年は今年の三倍能動的に動こう と思います。
孫悟空も三倍までなら界王拳を耐えれていたので僕も耐えます。
こんな振り返りをしていますが、
年の瀬を例年よりも感じていないです。
おそらく年内に会うのは最後だろうなって人には
「良いお年を」と伝えていますが、しっくりはきてないです。
もう少し後だろうな年の瀬....とも
かなり前に年の瀬が来ていたらな....とも
思います。
あれだ、あれに似ています。
打ち上げとか、飲み会で解散時を見失った感じ とか
街でばったり会った同級生とひと盛り上がりした後の別れ時が分からない感じ とか
そういう「終わり時」みたいなものを尽く見逃して、また来るであろうと期待して目の前のことが上の空にある状態。
結局
朝まで飲んでどうしようもなくなってぬるっと解散したり
急行を待たずして各停の電車に乗ったりする。
僕は始発が出ればダラダラと新年を迎えようと思います。
ほら
ほら
ほら
そら年の瀬です、気ぐらい狂います。
おそらく
西暦を書く時に「2020」とボールペンで書いてしまって「慣れへんわ〜」などと言いながら、慣れた頃には梅雨を感じて、いつの間にか歳を重ね、「令和三年」と印字された小銭を見つけては大切にお財布の中へしまったり、うっかり忘れてコンビニでそれを使ってしまったり、週のほとんどの夕食を牛丼で済ましたり、空になったシャンプーボトルをいつまでもそのままにしたり、気づいた頃には確定申告に頭を抱えると思います。
芝居は今年の三倍はしたいです。カラダもってくれよ!!
来年は少しでも多く、投げたものが入りますように。
読んでくださり、有難うございました。
家に改稿前のラブレターがあったので読んで恥じらいと共に年をまたごうかと思います。
残り少ない今年ですが
良いお年を。
二村 仁弥
汗っかき。
これは僕のエゴによって著されたものです。
不快に思われた方がいたら先に謝っておきます。
申し訳ございません。
________
中学三年生の合唱コンクール、三年生だけは地元の大きなイベントホールを借りて行っていた。
クラスでの歌唱
遠足、球技大会、体育大会などの行事の大トリ
中学三年間で卒業前の最期の行事。
だから、どのクラスも自ずと熱量が入る訳で
放課後も練習する毎日
「受験勉強が....」
と憂いを浮かばす人も歌は歌っていた。
一度、テクニカル的なチェックも込みで、
そのイベントホールでリハーサルをやる。
僕らのクラスは良かった。自分らでも思った。
その段階から僕らのクラスは6組だったんだが、「6組すげえな」って言われた。嬉しかった。その後の練習もより一層熱が入った。
さて、本番。1階席前方には、同級生がクラス毎に座っていて、1階席後方と2階席には保護者が腰掛けていた。リハーサルとは違った高揚感と緊張感がホール内には漂っていた。
客席通路で次が出番の僕らはしゃがんでその時を待つ。前クラスの歌声に昂りながら、緊張感と向き合っていた。硬くなった表情の人には深呼吸を促す。
練習のしすぎだったのか、声を枯らしたり、鼻声だったり体調不良の人が多かった。
だけど、ヤンキーのあの子はちゃんとボタンを止めていて、それが当たり前なんだけど、それになんか感動したり、大人しいあの子がギリギリまで歌の練習をしたり、いつも汗をかく彼はいつも通り額に汗を滲ませていて、それが可笑しくて張り詰めていた緊張が解れたりしていた。
舞台上に予め整列していた順に入場する。
ピアノの伴奏も指揮もみんなクラスメイト
客席から担任の先生の甲高い声の激励を
肌から浴びてみんなの感情がマックスになったのを感じた。
薄暗い舞台上で咄嗟に組むことになった円陣。
整列していたのに、ぐちゃぐちゃになった。
若いと、本番中になんでもかんでもぶっ込んでしまうきらいがある。
その中心には僕が居た、なんて言葉をかけたのか覚えていないがみんなの声がとても頼もしかった。列に並び直す、最後列の真ん中に僕はいた。
その前に彼は居た。
小学、中学と同じ学校の男の子、汗をよくかく彼だ。
今は互いに21才なのだから
男性と表記する方が良いのかも知れないが、中学卒業以降、会っていない彼は僕の中では15才のままなのだ。
彼は最初の練習の時に大きな声を出して歌っていたが、とてつもなく音痴だった。
ヤンキーに「お前音痴やから歌うな」と
キツめに言われてからは、大きな声で歌うことはなかった。心の中で安心していた。なのに、本番が始まると僕の目の前で大きな声を出している彼がいた。本番の時だけ、大きな声で歌ったのだ。
皆が練習から築き上げてきたものを、ぐしゃぐしゃにしたのだ。
本番終了後に起こった拍手のなか、担任の先生が何か言ってくれたが、恥ずかしくて早くこの場から去りたいと思っていてなんと言ってたのか覚えていない。
リハーサルでは褒められた僕らが銅賞すら貰えなかった。
体調不良の続出というのもあったが、もっともその原因と決めやすく、受け皿となりやすかったのが彼だった。直接は責めないものの、みんな彼が原因で賞を取れなかったと思っていた。思っていたと言うよりそう思いたかったのかもしれない。
だけど歌唱中、恐らく僕だけが見えていた彼の
制服に汗の跡が着いていたあの背中と
小刻みに震えていた手が
やけに印象に残っていて、僕も責めたものの
後ろめたさがあった。
それが、僕が彼のことで覚えている最期の記憶だった。
さっきも書いたが、卒業以来彼とは一度も会ってない。
今思うに、彼は皆の体調不良や緊張を察して
優しさから大きな声で歌を歌ったのだと思う。
あくまでも結果論と推測だが。
__________
そんな彼が先日、亡くなったらしい。
中学時からの仲の良い友だちで構成されたグループLINEにそのことがきた。
彼が亡くなったと。
死因などの詳しいことはわからないが、
13人も居るグループLINEでそれが上がった。
おそらく彼の存在はみんな知っている。
そのグループLINEには小学生の時、
彼にきつく当たって、いじっていた人も居るし、僕みたく同じクラスになった人もいるが、その事について言葉を交わしたのが4,5回程度だった。
そんなものなのか、と思ってしまった。
遠い関係ではあれども、かつて身近に居た存在。
別に形になったものが全てではないし、各々思っていることがあって形にしていないだけだとは思うが、僕含め、死でさえこんなにも冷えきった感情で対峙するのかと思った。残酷だな。
どう対処していいのか分からない事象を歳を重ねるにつれて避ける傾向があるが正しくそれだと思った。
だから、エゴでもなんでもいいからこのことを形として著したくなったんだ。
別に仲良くなかった彼。
当時、僕のことが嫌いだった彼。
多分、卒業以来僕のことを一度も思い出さなかったであろう彼。
恰幅の良い身体だったけど、空手を習っていた彼。
大人しい子だったけどヤンキーと仲良かった彼。
親に作ってもらったお弁当と購買で買ったパンを美味しそうに食べる彼。
ドッヂボールですぐに当たる彼。
音痴の彼。それを恥じない彼。
制服に跡がつくくらい汗をかいていた彼。
手を震わせていた彼。優しかった彼。
そんな彼が亡くなった。
21才という若さで。
ご冥福をお祈りします。
「死」というものが、これだけの記憶を想起させてくれるものだとは思いもよらなかった。
あの日責めたこと、謝りたかったな。
そして、あの背中がカッコ良かったとも伝えたかったな。
溶けきれなかった角砂糖 と 足だけカエルのオタマジャクシ
渋谷駅構内を歩っていると、ランドセルを背負った子が僕よりも慣れた歩き方で人混みの中を進んで行くのをみる。流れに身を委ね、時には逆らい、子どもという特権を駆使して、歩いている。
僕がそのくらいの年の頃、ゲームと公園と秘密基地と近所のSATYとが全てだった気がする。
「歩き方」なんてきっと知らなかった。
その小学生には見えるであろう流れが僕には見えない。歩く時は気を張ってる。ぶつからないように。もしぶつかったら陳謝する。
東京では気が抜けるところが少ない。
いつも自分の気を張り巡らせて生きてる。
だからなのか、
気を抜ける場所が目に入りやすくなった。
笹塚で見つけたあの喫茶店。
調布にある蕎麦屋。
バイト先のすぐ横にあるベンチ。
住んでるところのすぐ近くにある歩道橋。
たくさん見つけた。
東京。いい所ですね。
どうも。久方ぶりです。
この間会ったって人も居ますでしょうが。
みなさま、久方ぶりです。
二村 仁弥です。
あ、わたくし、5月から上京してます。
なかなか思うように行かないことが多く。
外に出れば誘惑も多く。
揺れる毎日です。消えないようにしないと。
___________
切り置きしてるキャベツです。
___________
下北沢の駅の前で子どもが、アスファルトに寝そべり手足をバタバタして泣いて大きな声で「帰りたくない」と、これぞお手本というような駄々を捏ねていた。状況から推測すると、その子の家族とは他に、親戚なのか友だちの家族なのかは解らないが、2グループの家族がいた。おそらく、自分ところの家族だけ帰ることになったのだろう。
それを見て小学生の頃、「 9 − 2 」の引き算だけが出来なくて泣いたのを思い出した。「8−5」もそれ以外もできたのに、なんでかそれだけが出来なかった。隣の女の子も「 7 − 3 」が出来なかったあの男の子もみんなできてて、先生も次の問題にいこうとしていて、ひとりぼっちになったように思えて寂しくなったのを思い出した。取り残されたようなあの感覚。なんで僕だけって思ってその吐き出し方が泣くことしかなくて、泣いてた。
あの子も多分、辛かっただろうなぁ。
次の日になったら忘れてると思うけど。
居酒屋でアルバイトしていた。
急遽入ったお仕事でも「行っておいで」と送り出してくれる。「バイトする暇ないぐらいに忙しくなってよ〜!」と言ってくれる。
本当に有難かった。だけど、その有り難さがダメだった。申し訳なさと、軋轢したバイト関係に耐えられなく、辞めました。次はなんのアルバイトをしようか。
お酒が出回る場で、働いていた。
最初は「生ビール1つください」と丁寧に言ってた人が、「生!!」と大声で言うようになったり、烏龍茶しか飲んでない人が居るのに、日本酒をガバガバ飲んでる人が綺麗に割り勘してたり、平気でする。自分はこうなりたくない、こういう人とは一緒に居たくない。と反面教師にして「はい先生」と心の中で言ってる。
彼らの様に、お酒を飲んだだけで失う理性を持ち合わせていたのならば、どれだけのことを失わずに済んだのだろうかと思う。
飲んでも顔が赤くなってトイレが近くなるだけで、何も変わらない。お酒が原因でダサい言葉のひとつやふたつ言いたい。恥ずかしくなるような事も気を大きくしてしたい。
なんで出来ないのだろうか。
元々、自分に酔っているからなのか。
___________
また、まとまりのないものになったが、自分を誤魔化せているので続けます。
5月から上京してもう8月。
計6回。ほぼ月に1回のペースで警察官に職務質問をされます。後半の方はもう慣れちゃって。警察官と雑談しながら手荷物検査されてます。
でも、ふと鏡に反射した自分を見た時に、なんか危ない物持ってそうだな と他人事の様に思いました。他人だったら良かったのに。
客観込みで怪しい人でした。
あら多摩川が綺麗。
夏って感じのあおですね。
___________
演劇を変わらずやっていますが、
随分と怠けている気がして仕方が無いのです。
自分がどんどん流されていくような感覚。
遠くなっていく感覚。暗くなって行く感覚。
どこを目指してたんだっけか。
それすらも分からなくなってどっちが前で後ろか右で左か平衡感覚を失ったようだ。
なんか全部が失われて、なんにもなかったようにまた笑って暮らしてそうで。
怖くて仕方がないです。
先日、とあるオーディションを受けました。結果的にはまあ落ちたんですが、偶然同じオーディションを受けていた友人は受かりました。純度の高い嬉しい気持ちと悔しいという気持ちが同時発生して混ざって上手く立ち回れなかったです。
案外、自分に自信を持っていたのかと勘違いしたが、それが単なる願望が化けただけだということにも気が付きました。
こう思っているのはおそらく私だけだし、恥ずかしいのだが、その友人が演劇の世界に足を踏み入れたきっかけのひとつに私の存在もあっただろうと思い込んでいる。なんともダサい(笑)
別にそれに感謝とかそういうのではなく、
小学校の頃、サッカーをやっていた僕は、また別の友人にサッカーを始めることを勧めました。彼は始めるとみるみる上達していって、あっという間に置いてきぼりにされたことを思い出した。こうも才能がないのかと、具体的に他人と比較し、落ち込んだ日でした。
何だかそれに似ていて、
普段よりずっとしんどかった。
こうやって著すと忘れないで済む。
___________
こうやってただの自己満足の一歩先で、自分の頭の中にあるぼんやりとしたものを形にして残して、更には人様に機会があれば見て欲しいだなんて思っている。その時点で良いように着飾り誤魔化している。裸の文字を見られるなんて恥ずかしい。だが、自分の中にある事実に他人をのせて、伝えるのが私どもの生業。俳優とか言うものだと思っておりますので、まずは裸にならないとダメなんです。
8月で気温が37℃とか、脳みそも身体も溶けているのに、こんなに厚く着込んで今日も歩いている。生き方音痴だなといよいよ思っております。
___________
東京へ来て、撮った写真です。
目を向けるものが、いつの頃と変わってなくて
少し安心しています。
自分のことなんてよく分からないんだから
探しながら、でも殺しながら 出会っていくしかないのかと。近頃は思うのです。
無理に威張った自意識と乾ききった勇気と共に
はぁ、生きるのって大変ですね。
大変にしてるのは紛れもない自分なんですが。
また書きます。こんな自己満足の言葉を読んでくれて有難うございます。
二村 仁弥
ただもの なにもの なまけもの
どうも、
この間ぶりの人も
初めましての人も
お久しぶりの人も
二村 仁弥です。
鼻が詰まってます。
単純に風邪です。
頭がぼーっとします。
先日、東京に行きました。
桜がもう咲いてました。
早いですね。都会は何もかも。
僕からすると、洋服屋のショーウィンドウに飾られてるマネキンみたいです。
全部一足先。
両手をそれに着けて羨ましがってます。
手の跡は誰かが掃除されて拭き取られるんでしょうけど。
昔もこの前も今もそんな感じ(笑)
桜もあってか、新宿中央公園は人で賑わっていました。日向の当たるベンチで休みながらその様子を眺めてました。
子どもが躓いて転んでました。
上ばっかりみてたからかな。
それでも涙をためながら、
上を見上げてました。
頭の中で「上を向いて歩こう」が流れました。
おばさんが桜の写真を撮ろうと必死。
草花の上を踏んで背伸びをして少しでも近くの桜を収めようとしてました。踏まれる春。
足元の春もちゃんと見てあげてー。
と心の中でボヤいてました(笑)
その日は晴れてて、暖かかったんです。
みんな薄着で。
でも僕は地元からでてきたから厚着で。
途中から上着を畳んで腕にかけてぼくも歩きました。
馴染もうと必死。
折角なんで、その横に聳え立つ東京都庁に行きました。外国人観光客が沢山居て、
同じ服を着ている従業員さんも沢山居て、
あの制服の統一感と建物の威圧感を観て
何かから守ろうとしているような、
地球防衛軍的なやつなのと思いました。(笑)
何かしてやろうと思って考えた結果、
都庁でトイレだけして出てきました。(笑)
まるでコンビニ感覚。ワイルドだろぉ𓀼𓀤𓀥𓁍
_________
僕は東京というか都会は苦手です。
空気は臭いし、人は多いし、夜なのに明るいし、ゴミ箱少ないし、もう乗れないのに電車に乗り込もうとするし。
だけど、みんな自分に必死だから、
「お前になんか興味ないよ」
って言われてる気がするから、自意識過剰の僕にとってはすごくいいんです。(笑)
心が落ち着く。孤独で在れる。
苦手なものやことを好んですると見えることもある。
最近はそう思います。
昔苦手だったピーマンが今食べてみると案外余裕にいけちゃうのと同じで。
知らぬ間にレベルアップしてるんだよね。
過去に超えられなかった壁を今なら跨いだりできちゃう。(笑)
あの時の景色を今になって新たに味わえるし。
ピーマンの苦味と共に。
これは避けられる壁。
_________
お芝居は苦手です。
ずっと不安です。力不足なのが大半です。
だけど、全部自分だから、ちゃんと受け止めて
しんどいけど向き合ってます。その壁に。
もし、今その壁が超えられなかったらってよく考えました。
ピーマンみたいになるかなとも考えて
壁の横から先を見ます。だけど、その壁が続いていて、避けて前に行っても目的のところへは進めないです。避けられない壁。
よじ登るしかないのか
と思いました。
ずっと上ばっかり見てたから首が痛くなって下を見たんです。そしたら小さなドアがあって。
それは「発見のドア」で。
ガチャっと開いて中に入ると階段があって、それを登って一段ずつ。
次もドアがあって、「発声のドア」。開けたらまた階段があってそれを登って。それの繰り返しで。「姿勢のドア」「見せ方のドア」色々とあって
壁を登るってことは、
問題を解決するために思考するということは
行動なのだと思いました。
壁の前に突っ立ってて悩んでいても何も始まらないから
石を投げつけるとか、蹴ってみるとか
そんな些細なことからでいいから
なにか行動に移そうって思いました。
だからかなのか解りませんが、
最近お芝居が好きになってきました。
面白いし辛いし面倒くさいし楽しいです!
向き合うと見えてくるものも、
見えなくなるものもある。
全部忘れずに居たいですね。
またまとまりのないふわふわとした言葉になった。
また書きます。
読んでくれた人有難うございます。
二村仁弥
ドリンクバーでいつもコップに氷を沢山入れるから、ジュースを少しか飲めてないです。お代わりたくさんします。
ブログなるモノを始めようと思って、
何を書こうか悩んで、まず自己紹介を書きます
フタムラ ジンヤ
二村 仁弥 という 20歳のおのこです。
何をやってるかと言うと、役者です。
ほぼアルバイトの生活なので
フリーターの方がふさわしいのかもしれません。そっちの方が早く説明がつく時は、そう答えますが、カタカナより漢字の方が好きなので、役者ということに、欲を言えば、「駆け出しの役者」と装飾しておいて下さい。
先日、知り合いが出ているとある舞台を観て、
言葉の凄さを改めて感じて。
いろんな感情が頭の中でごちゃごちゃになって散らかっていて。このまま置いておくのはそれはそれで心地がいいんだけどね。それだとどこに何があったか忘れてしまいそうで。
温かいうちに吐き出そうと思って、
ブログを始めました。
舞台をみた感想は書きませんが。(笑)
拾った言葉
借りた言葉
貰った言葉
紡いだ言葉
それらの保管庫です。
とわ言いつつも、
最初に断言してしすぎてしまうと、
後々自分の首を絞めそうな気がするので、
あまり固執しないでおこうと思います。
_________
さて、読んでくれる人は一体どんな人なのか、どんなことを考えながら読んでくださってるのか、私は、今想像しています。
幼い頃からの友達ならきっとこの文章を恥ずかしく思いながら読んでくれてる人もいるだろうし、
「またこいつ変なこと言ってるわ。」
と思う人もいるだろうし、
私のことをよく知らない人たちは、
この言葉だけの数少ない情報量で私を読み解こうとするかもしれません。
興味を持ってくださる方は、前のめりで読んでくれているかもしれません。
そもそも興味を抱かず、このページを開いてないのかもしれないですね。(笑)
まず、自分の印象を主観的な考えと、実際に頂いた言葉から推測してみようと思います。
理屈っぽい。真面目。捻くれている。根暗。ネガティヴ。厨二病。ぐず。
内面の部分ですが、いくつか挙げてみました。
そうなのかぁ って思うものも、わかるかも って思うものもあります。どれも否定するつもりも肯定するつもりもないです。
_________
話は変わりますが、鏡にうつる自分を観て、
「自分、いけてるかも」って思ったことはありませんか?
鏡をみるとき、人は無意識に自分のなりたい自分に近づこうとしてしまいます。
私は度々「いけてるかも」と思います。
ですが、動画や写真のなかにいる私は全然そんなことなくて。違和感だらけでした。
鏡をみた時にその違和感は感じないのに。
寧ろ、「いけてる」とさえ思っているのに。
だけど、写真の場合はうつりかたさえ覚えてしまえばいくらでも見方は変化できるんです。
これが所謂、『盛る』というやつです。
鏡でも写真でも、素の自分はわからないんです
どこに居るんでしょう。わたしは。
だから、私は私の印象を否定することも肯定することもないんです。
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自分でも自分のイメージというものを持っていますが、それが間違っていることもあります。
最近、「意外と子どもっぽい」とか「話せば歳相応だね」と言われることが多いんです。
歳上の方に。
「大人っぽい」人だと思っていたので。
約20年間そんなこと思ったことなくて、
周りよりもませてると思われたかったガキンチョだったから、「おとな」に対しての憧れが強い子どもだと思っていたので、驚きました。
勘違いだったのかなぁ。
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私は自分に自信を持っていません。
だから、執着や期待をしてしまうんだろうと思います。
褒められるとスキップしたくなるし、
誰であれ好意を抱かれると嬉しいんです。
でも、それらを信じすぎてしまうところがあります。だから、相手に期待してしまう。
もっと言えば自分の理想を無自覚に押し付けてしまう。それでいて勝手に裏切られて失望して、それがストレスになっていくんです。
とんだ負のらせんのなかに私は居ます。
心の負担がとんでもないです。怖い怖いー。
だから私は期待や執着をやめようと思いました。明石家さんまさんが「落ち込む人は、自分のことを過大評価し過ぎだ。」
と言っていたのを耳にしたことがあります。
勿論それは、自暴自棄になるということではなくて、やるべきことをやった結果、目の前に在る現実をきちんと受け入れて、及ばなかったところは潔く諦めるということです。
そう思ってから、心が軽くなった気がします。
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これを言うのは二回目ですが、
私は自分に自信を持っていません。
小学校4年生から途端に明るい子どもになったんですが、高校の部活を引退したと共に、電池が切れました。明るすぎると充電の減りが早いんです。
今ではすっかり「変な」人の扱いをされます。
何があったんだ!!私よ!!(笑)
こんな人間に自信が持てるはずがないです。
でも自分は大事です。自分を考えてます。
そうやって生きてます。
人の顔色を伺って愛想笑いをしたり、
圧力が強そうな人には逆らわないようにしたり、理不尽な上司や悪態つくお客さんに謝罪をしたり、私もやりますが。
みんな、そんなことどこで教わってきたんでしょうね。
日常的にみなさん、演技してるんですよね。
つまり、人の根本を覗こうなんて無理な話ということなんでしょう!気づいてしまった!!
私は、感情の整理のためによくノートやSNSに文字を並べたりします。でもそれは、とても怖いことだと思うんです。だって、私という人間を見透かされるような気がするから。
ですが、根本を覗かれることがないのだから、きっと私は私をいいように誤魔化しているのでしょう。あんしんあんしん。
私も私を信用してないので、ここに書いてあることが真実だとも、私のことだとも思わないでくださいね。
初っ端にこんな長々と読むかどうかも保証されていないのに、言葉を並べましたが、最後まで読んでくださった人、有難うございます。
こう考えるきっかけになった人が居ますが、その名前は伏せておきます。書き方も寄せています。真似とも取れる。笑
二村 仁弥
#役者
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